ドビュッシーの歌曲創作 

~演奏曲に寄せて~


 山本 まり子 

※演奏曲は太字で記載

 

 フランス語の流れるような韻律とニュアンスに富んだ響きは、それ自体で十分に音楽的だ。その繊細な陰影は潜在的な心象風景を喚起する文学作品として実を結び、感情表出や情景描写といった本質的な言語機能をはるかに超越して芸術文化を彩っていく。時代の精神を反映した詩の数々にクロード・ドビュッシー(Claude Achille Debussy, 1862~1918)は惹かれ続け、大胆で新鮮な音楽語法で過去の音楽秩序を打破していく。ドビュッシーの歌曲へのこだわりは、創作の最初期から晩年まで絶えることがない。今宵のプログラムでは、ドビュッシーの全時代の歌曲作品が網羅的に演奏される。“声”、“言葉”、“ピアノ”というプリズムを通して解き放たれる、しなやかで幽遠なる空気でApparitionの場が満たされることだろう。

 以下、演奏曲を軸にして、ドビュッシーの歌曲創作の変遷を追ってみよう。

 

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 1870年2月、カンヌに住む伯母のもとで初めてピアノに触れる機会を得たアシル少年は、パリに戻るとポール・ヴェルレーヌ(1844~1896)の義母でもあるアントワネット=フロール・モテ夫人のレッスンを受け、才能を開花させる。そしてたった2年半後、10歳の少年は約5倍の難関を突破し、国立パリ高等音楽院に入学を果たすのである。そこでの彼はピアノとソルフェージュのクラスで腕を磨きながら、伝統的で堅苦しい和声の教えに反発し、次第に独自路線を歩み始める。

 

 ドビュッシーの最初の作品とされるのは歌曲である。1879年、アルフレッド・ド・ミュッセ(1810~1857)の詩による「月に寄せるバラード」、「マドリード」に始まり、学生時代は歌曲に実りが多く、40曲余りが書かれた。期末試験の作品「星の夜」(1880)を皮切りに、ドビュッシーは高踏派を代表するテオドール・ド・バンヴィル(1823~1891)の詩に次々と向かう。「そよ風」(1881)、「ピエロ」(1881)もバンヴィルの作である。

 

 ちょうどその頃、創作に大きな影響を与えた女性たちとの数奇な出会いがあった。チャイコフスキーのパトロンとして知られるナジェジダ・フォン・メック夫人(1831~1894)のヨーロッパ旅行に随伴した彼はいくつかの小品を書いたが、歌曲量産の原動力となったのは、何といっても人妻マリ=ブランシュ・ヴァニエの存在であろう。ドビュッシーがピアノ伴奏者を務めていた声楽のレッスンへやってきた夫人は、輝く美貌と伸びやかな美声を併せ持っていた。彼女に夢中になったドビュッシーは熱い想いを、上記のバンヴィルやポール・ブルジェ(1852~1935)の詩に託し、瑞々しい感性で音楽を与えていく。ブルジェによる作品には「美しき夕べ」(1880)、「感傷的な風景」(1883)などがある。ガブリエル・フォーレ(1845~1924)に先んじてヴェルレーヌの詩に目をつけたのも彼女に曲を献呈するためで、「マンドリン」(1882)、「パントマイム」(1882)、「月の光」(第1稿、1882)などの秀作が生まれた。結果、ヴァニエ夫人に捧げられた歌曲は約30曲に及ぶ。本コンサートのタイトルにもなった「出現」(1884)もその1曲であり、まだ知己を得る前のステファヌ・マラルメ(1842~1898)の詩に寄せた初めての作品である。どの曲も高音域を華やかに歌うヴァニエ夫人に合わせたもので、新しい和声語法を模索しながら、色彩の揺らぎと詩的幻想を機知に富んだ表現で描いている。

 

 作曲家の登竜門であるローマ賞。1882年、ドビュッシーの初の挑戦は予選敗退、2度目は2等賞に終わったが、気乗りのしないまま受けた3回目の挑戦ではエドゥアール・ギナン(1838~1909)の台本によるカンタータ《放蕩息子》(1884)で見事1等賞を勝ち取る。本作は新約聖書ルカによる福音書の「放蕩息子のたとえ」を翻案した劇作品で、短い前奏に続き、帰らぬ息子アザエルを思って母親リアが悲嘆と苦悩を歌う「リアのアリア」は名高い。抒情性を湛えた斬新な響きの連続によって、ドビュッシーは伝統を重んじるパリ音楽院の重鎮をようやく頷かせることができたのだった。

 

 しかし、ようやく手にしたイタリアでの生活に馴染めなかったばかりか、ヴァニエ夫人と別居生活が耐え難く、ドビュッシーは義務付けられた最短期間の2年で留学を切り上げる。この時期の歌曲には後に《2つのロマンス》(1891)として出版された、ブルジェの詩による「ロマンス」(1885)と「鐘」(1885)がある。また彼は、ヴェルレーヌの詩集『言葉のないロマンス』(1874)から6つの詩に作曲した。『言葉のないロマンス』は3つの詩群からなり、1)『忘れられた小唄』のグループからは「そはやるせなき」「巷に雨が降るように」、「木々の影」、2)『ベルギー風景』のグループからは「木馬(ベルギー風景)」、3)『水彩画』のグループからは「グリーン(水彩画Ⅰ)」、「スプリーン(水彩画Ⅱ)」が取り上げられている。これらは1888年に個別に発表され、5年後に改めて《忘れられた小唄》(1893)として出版された。

 

 時を同じくして、ドビュッシーはシャルル・ボードレール(1821~1867)の『悪の華』(初版1857)を扱う。19世紀後半、ヨーロッパの多くの芸術家たちがリヒャルト・ワーグナー(1813~1883)の音楽と思想から大きな影響を受けた。フランスでとりわけワーグナー熱を高めたのは象徴派の詩人たち。その代表格がワーグナー論を著したボードレールであろう。自身もワグネリアンであったドビュッシーは、ボードレールの濃密、耽美的で謎めいた文学を愛好し、『悪の華』から「露台」、「夕べの諧調」(1889)、「噴水」、「静思」、「恋人たちの死」(1887)の5篇を選んで作曲した。これが《ボードレールの5つの詩》である。ワーグナーの影響が優勢で調性の不安定な作品は一般に理解されなかったものの、ちょうどマラルメの目に留まったのだ。ボードレール歌曲集を境にドビュッシーはワーグナーと決別し、この詩人に二度と向き合うことはなかったが、「夕べの諧調」に書かれた一節「音と香りは夕暮れの大気に漂う」は、20年後にピアノのための《前奏曲集》第1巻(1910)で再び音楽化されることとなる。

 

 ドビュッシーはマラルメの私邸で行われていた象徴派文学者の集い「火曜会」に、音楽家として唯一出入りを認められる。彼にとってこれほど刺激的な時間はなかったであろう。当時舞台化を計画されていた『半獣神の午後』のための作曲依頼は、《牧神の午後への前奏曲》(1894)として結実し、ドビュッシーの評価と近代フランス音楽の方向性を決定づけたのだから。

ドビュッシーは依然としてヴェルレーヌの詩に向き合い続け、「海は伽藍よりも美しい」、「角笛の音は」、「垣の列」からなる《3つのメロディ》(1891)のほか、《華やかな饗宴》第1集(1892)が生まれる。後者は初期に書かれた「ひそやかに」「操り人形」「月の光」の3曲をそれぞれ改稿して編んだ歌曲集である。火曜会のメンバーとの交流を通して研ぎ澄まされた文学的感性からは、自らの創作詩「夢」、「砂浜」、「花」「夕べ」に作曲した《抒情的散文》(1893)が書かれる。この辺りから、韻文の制約から解放され、情動の赴くままに柔軟で自由な表現を求めるドビュッシーの散文詩志向が明確になると同時に、朗唱的歌唱法が顕著となる

 

 同年、ドビュッシーは《ペレアスとメリザンド》のオペラ化の許可を得る。1902年1月に初演されるまでの間、彼の創作活動はこのオペラを中心に進んでいく。1894年、ピエール・ルイス(1870~1925)が古代ギリシャのビリティスなる女性が書いたエロティックな散文詩の翻訳として『ビリティスの歌』を発表。後に詩人自身による創作と判明したこの詩集から、ドビュッシーは「パンの笛」「髪」「ナイアードの墓」の3つを取り上げ、《ビリティスの歌》(1898)としてまとめた。

 

 《ペレアスとメリザンド》の初演がセンセーションを巻き起こした後は、再びヴェルレーヌに詩に付曲した「うぶな人々」、「半獣神」、「わびしい対話」からなる《華やかな饗宴》第2集(1904)が書かれたが、その後6年間は声楽作品に手が付けられていない。

 

 同時期、数百年前の詩作にまなざしを向けたドビュッシーは、フランソワ・ヴィヨン(1431~1463以降)の詩に作曲する。ヴィヨンは悪行の限りを尽くした無頼の詩人だが、その作品は近代的と評される。《フランソワ・ヴィヨンの3つのバラード》(1910)は、「恋人に捧げるバラード」、「母の求めにより聖母に祈るために作られたヴィヨンのバラード」「パリ女のバラード」で構成されている。

 

 晩年、創作の勢いが落ちたドビュッシーだが、《出現》以来29年の歳月を経て、再びマラルメの詩に曲をつけた。マラルメ初期の2作「ため息」「取るに足らない願い」と後期の「扇」からなる《ステファヌ・マラルメの3つの詩》(1913)は、言葉の裏に比喩と諧謔が見え隠れするが、ドビュッシーはあらゆる和声語法を駆使して自信作に仕上げた。最後の歌曲となった《家なき子たちのクリスマス》(1915)は、第一次世界大戦の惨禍を眼前にしたドビュッシーが、病に蝕まれた肉体を奮い立たせ、ドイツへの敵対心をむき出しにしながら自ら作詩・作曲して、戦災孤児に捧げた作品である。

 

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 ドビュッシーの歌曲創作の全体像を見渡すことができる今回のプログラム。歌曲という、ドビュッシーの創作活動において忘れてはならない視点から改めて眺めていただければありがたい。